令 和 6 年 お か え り 祭 り
5月18日(土)19日(日)
お か え り 筋
美 川 浜 町
令和6年4月1日 午後7時30分より
ラッパの清祓い↑
美川青年団
おかえり祭りを守る会参列
春季祭礼『おかえり祭り』の現在の形が整って きたのは、文化文政年間(1804~1830)と言われています。
一日目を神幸祭、二日目を還幸祭と呼びます。
一日目の神幸祭では、早朝美川町の裏鬼門にあたる藤塚神社本社より、青年団に担がれた八面四扉の精巧華麗な神輿が、豪華絢爛な十三台の台車に先導され、お発ちになります。旗手の合図にラッパを高らかに吹き鳴らし、町中が祭り一色となります。氏子一軒一軒を厄祓いして巡り、夜半表鬼門にあたる御旅所にお着きになります。
二日目の還幸祭では、夜の帳が降りる頃、神輿はおかえり筋の男衆に担がれ御旅所をお発ちになります。一番鶏が鳴く頃までには本社にお着きになりますが、お還りに通る町筋は十町のうち一町のみをお通りになり、その年の『おかえり筋』と呼ばれ、おかえり祭りの名前の由来となっています。おかえり筋の家々では十年に一度の還幸に
、親戚友人知人を招き宴を催し、過去十年の報恩感謝と未来十年の祈願 の意義から『みたま』と呼ばれる『こわ飯』をこしらえもてなします。
また紋付袴の白襷姿の正装で行う祭りは全国でも珍しく、安政四年(1857)京都仁和寺『御室御所』より、菊花紋章入り神輿の日覆を下賜され たことに、敬意を表したものと言われています。廻船業『北前船
』で 大きな財 を築いた『紺 屋(竹多)』『明翫屋(山田)』の町内の富豪の功績により、守護の鉄棒、正一位日吉神社の社頭額と共に下賜されました。
『おかえり祭り』は、幕末~明治初期にかけて『北前船』が繁 栄した頃の町衆文 化を今日まで継承しており、平成十三年十二月、石川県無形民俗文化財に指定され、令和二年六月十九日には、日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落~」の構成文化財に認定されました。
大 神 輿
北前船主紺屋三郎兵衛 寄進
(白山市文化財指定)
天保五年の大火で神社の殆どが焼失し、御神体は暫く紺屋三郎兵衛宅に奉安されていましたが、後に三郎兵衛が寄進した神輿で神社本殿へ遷座しました。
この神輿は、御神体が日吉大社より勧請されていることから、日吉大社の神輿に倣って大工の奥谷与佐衛門が造り上げたものです。
神慮を畏み職人達は銘を記さなかったらしく、精巧華麗で重量感のある神輿には、当時の人々の心意気と力強さが感じられます。
(保存のため、昭和四十九年からは軽量化された神輿で巡行しています。)
2017年 美川おかえり祭り
おかえりの絆 DVD/Blue-Rays
ダイジェスト版
巡 行 図